日本の伝統工芸品 総合サイト

江戸切子TOP >江戸切子とは

江戸切子とは

現代に復元された金赤『創作 高杯(こうはい)』
提供:(株)島津興業 薩摩ガラス工芸様

江戸で磨かれし西洋の技法
~ガラスに刻み込まれる歴史と煌めき~

ガラスにカットを施して模様をつける技法は、ササン朝ペルシャ(226~651年)にまで遡る古いものですが、この技法が日本に伝えられたのは江戸時代に入ってからと言われています。

以来、その技法は途絶えることなく江戸の職人によって代々受け継がれ、技術の発達とともに新たなデザインが次々と生み出さたことで、江戸切子は多様性を備えた現代の工芸品としての地位を確立するにいたります。

代表的な技術としては、江戸時代の薩摩で開発された”金赤”があげられます。赤を発色させるために、金を用いたためそう呼ばれるようになりました。切子職人たちは、金赤を得たことで益々豊かな表現が可能となったのです。

ただ、残念なことに江戸時代に製造された金赤の切子は現存するものが未だ発見されておらず、「幻の金赤」と呼ばれています。ちなみに、銅を使って発色させた赤は「紅」と呼ばれ、こちらは現存するものが少なからずあるそうです。

伝統的な魚子(ななこ)文様の銘々皿

江戸から薩摩へ、そして薩摩から江戸へ
時を超えて受け継がれる職人の心

江戸切子の創始者は、加賀屋久兵衛(本名:皆川文次郎)とされています。
当初、日本橋のガラス問屋加賀屋に勤めていた文次郎は、技術を求めて大阪に旅立ち、和泉屋嘉兵衛に弟子入りします。

1834年、大阪でビードロ細工の技術を身につけた文次郎は江戸に戻り、加賀屋から暖簾分けを許され、以後加賀屋久兵衛と名乗ります。そして久兵衛は大阪で学んだ技術をもとに金剛砂や木の棒を用いて江戸切子の技法を開発しました。

一方薩摩では、1846年に江戸の加賀屋から四本亀次郎を招聘して、本格的なガラス製造が開始されます。これが薩摩切子の始まりです。
そして、藩主となった島津斉彬が積極的に技術開発を奨励した結果、銅粉で暗赤色、金粉で明赤色を発する紅色ガラスの製造に成功し、薩摩切子は隆盛期を迎えます。

その後、幕末の混乱で薩摩切子の技術は途絶えてしまいましたが、この時、江戸に流れ着いた薩摩切子の職人たちが伝えたのが、紅色ガラスや色被せ(いろきせ)技法です。
この頃までの江戸切子は、まだ無色透明なガラスに切子を施すだけのシンプルな物がほとんどでしたが、薩摩切子の色彩豊かな表現技法を得たことで、江戸切子は更なる発展を遂げます。

伝統の細かな文様が施されたグラス

ペリーも驚いた繊細技法
西洋の文化が江戸で花開く

1853年、黒船で浦賀に来航したアメリカのペリー提督は、加賀屋から献上された切子瓶の見事なカット技法に驚いたという逸話があります。

もともとは西洋から伝わった技法が、江戸で洗練されて花開いた結果、西洋の人を驚かせることになったというのは、いかにも技術立国日本らしいエピソードです。

【伝統的な技術・技法】

  • 墨付けは、竹棒の長さでガラス器の口からの位置を割り出し、内側を等分に分割した紙筒にガラス器をさし込んで水平位置の割出しをする。
  • 粗摺り、三番掛けは、金剛砂の粒度を使いわけ、金盤の車の山は図柄によって3種類を使用する。
  • 石掛けは、砥石車は天然産(九州の五島、笹口)の丸砥石を用いる。
  • 研磨は木車(桐、柳)に磨き粉をつけ、図柄を丁寧に磨き上げる。

引用:東京の伝統工芸品-東京都産業労働局商工部-

脈々と伝わる職人の技
平成14年、国の伝統的工芸品として指定

「江戸切子」は平成14年、国の伝統的工芸品に指定されました。

復元 船形鉢(ふながたばち)
提供:(株)島津興業 薩摩ガラス工芸様

江戸切子と薩摩切子の違い
ガラスの厚みがもたらす「ぼかし」とは

薩摩切子は、藩主であった島津家の主導により行われた製薬事業のための薬品瓶が基になっています。そのため、やや厚手で丈夫なつくりのものが多く、この構造上の特徴が、薩摩切子の最大の特色である有色から無色への「ぼかし」技法を生み出しました。
その後、薩摩切子は官営の贈答品としての役割を担うことが多くなり、美術品的な要素を併せ持つことになって行きます。

一方の江戸切子は、一般庶民が日用品として使うことを目的として作られたため、ガラスは薄めで小ぶりなものが中心でした。
江戸切子は、その文様も用途も庶民の生活とともに発展してきた庶民の文化と言えます。

ページの先頭へ戻る